今年78歳の母。昭和6年生まれです。
私達が小さい頃から折に触れて戦中戦後の話を聞かせてくれましたが、
最近は頻繁に当時のことを思い出すみたい。
ハチャメチャな内容で笑えるので、
話してくれるたびに書き残すことにしました。
興味のある方はお付き合いくださいませ。
(一度削除しましたが、母のOKが出たので再度掲載します)
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昭和23年、母17歳、受験の話
神戸から熊本に疎開して、女学校時代を送ったんだけど、
空襲と畑仕事ばっかりで少しも勉強できなかった。
終戦後の方がもっと食料難で苦しくなって、
エイさん(母の母)が着物を米やら野菜やらに換えてきよんなさった。
でも百姓がこれまたケチでねぇ。
都会のもんにはあげられんていう態度だった。ひどかったよ。
そんな風だから、もう絶対田舎から出てやるって心に決めて
京都女専を受験することにしたのよ。
なんで京都かって? そこしか焼け残ってなかったのよ。
京都には爆弾は落ちたけど焼夷弾じゃなかったから学校が燃えずにすんだようだった。
受験すると決めたものの、戦時中にろくに勉強してなかったから
学校の先生が勉強を見てくれることになった。
分厚い本を一冊くれて「これやっとけ」って。
敵国の言葉なんてやる必要ないと学校が言ってたのに
戦争が終わったら受験科目にちゃんと英語がある。
だまされたって感じよ。
受験の前日、熊本から汽車に乗って京都に向かったの。
キンちゃん(母の父)がね、けっこう奮発して腕時計をくれたんだよ。
物のない時期だったけれどキンちゃんが時計修理を仕事にしていたから手に入ったんだと思う。
エイさんにはお弁当を作ってもらって、リュックに仕込んでいざ出陣。
駅では引き揚げ者とか帰還兵が溢れかえってた。
それがまたすごい臭い。何日もお風呂なんか入ってないからねぇ。
汽車にも入り口から乗れないのよ。込み合いすぎて。
下から持ち上げてもらって、よっこいしょと窓から入る。
窓のすぐ下には乗客が寝っころがってたけど、その上にどすん。
「うげぇ」と呻いても仕方ない、足の踏み場がなかったんだもん。
なんとか座る場所を確保して汽車が出発。
トイレはどうするかって?
駅に止まるたびにみんなで窓から外に出て、線路の脇でするのよ。
「女の子が外に出るぞー」と誰か大人が叫ぶと
周りの人が体を支えて外に出してくれた。
3分くらいしか停車しないから慌てて終わらせるの。
用を足して帰ってきたら、また引っ張り上げてもらった。
トイレに行く前まで座ってた場所は誰かに取られてるんだけど、
女の子がかわいそうだからと、少しずつお尻をずらして隙間を作ってくれたよ。
ただねぇこの時、キンちゃんがくれた腕時計を壊しちゃってね。
窓枠に手を掛けて汽車の外に出ようとしたら足が線路に届かない。
ぶら下がった瞬間、時計盤の部分が窓枠に引っ掛かってバチーンとはずれちゃった。
蓋も秒針も粉々。手首にバンドだけ残ったの。
試験のときに使うつもりが全然役立たずになってしもうたのよ。
それから、汽車の中でお弁当を食べようと蓋を開けたら
なんとなく変なにおいがしてきたの。
でも周りもクサイ人だらけでしょ、その臭いが移ったんやろと思って食べた。
そしたらお腹がゴロゴロ。おかずが痛んでたんよね。やっぱり。
それから京都に着くまで、ずーっと腹痛。
しょっちゅう外に出るわけにいかなかったからひたすら我慢してた。
京都について、受験者用の寮に落ち着いたものの、
その日の晩は一晩中下痢。
もうフラフラになっちゃってね。
試験当日は先生に「ここが出る」と言われた数学は出なくて、
全然わからん化学が出た。
英語ももうテキトー。合ってるんだかなんだかわかりゃせん。
こりゃだめだと諦めて熊本に帰った。
同級生にもう一人京都女専を受けた子がいて、
親戚が京都にいるとかで、
「合格したら一緒に下宿しよう」と声をかけてくれてた。
うちは貧乏やったから大助かりだったのよ。
でもきっとその子だけ行くことになるだろうなぁと、みんな予想してたのに
なんと、私が受かってその子が落ちた。
何で受かったのか、今でも不思議。
だけど下宿の話はもちろん無し。当てが大ハズレになってしまったの。
結局、女専の寮に入ることになったんだけど、
お金の工面が大変だったと思うよ、特にエイさんが。
なんで京都行きを諦めなかったのかって?
どうしても、どんなことをしても、田舎から出たかったんだもん。
このチャンスを逃すわけにはいかなかったのよ。
(いつかの次回に続く)